「南部牛追唄」の背景を巡る
2012年 09月 28日

そもそも南部牛は、旧南部藩の時代に荷役牛(荷物を運ぶ牛)として岩泉町を含む岩手県北部で飼われていました。沿岸の塩や海産物、あるいは鉄山の鉄を内陸の盛岡まで運び、お米や生活物資を積んで帰ったのです。

一頭の南部牛が背負う荷駄の標準は30貫(113kg)で、7頭が一つの群れを作り、先頭には「棟梁」、最後尾には「後牛(あとうし)」と言って、若い新入りの牛がついたそうです。
♪ 先もよいよい 中牛もよいが
まして後牛 なおかわい コランサエ~ ♪

南部牛は2泊3日の行程で沿岸から盛岡へ歩いていましたが、現在の小本街道(国道455号線沿い)は「藪川通り」とよばれ、現在でも早坂峠を超える「塩の道」が残っています。

ちなみに、荷役には馬を使う地域もありますが、足の速い馬(奇蹄目)は傾斜に弱く、岩泉の急峻な山を越えるには、蹄が2つに分かれた牛(偶蹄目)でないと難しかったのだそうです。
粘り強く一歩ずつ、そんな岩泉町民の「お国柄」は、南部牛から受け継がれたのかも知れません。
ほんだらば、岩泉町民会館で!
《参考》東北農業研究センター「短角牛今昔ものがたり」
(2005年2月12日、スローフード岩手「故郷に残したい食材100選」ワークショップより)